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最近発見された、誰もが知らなかった歴史的な出来事を捉えた写真

最近発見された、誰もが知らなかった歴史的な出来事を捉えた写真

Elleni Rozam  | 6 months ago
最近では、誰もが高画質カメラを搭載したスマートフォンを常に持ち歩いています。しかしちょっと前まではカメラというものは珍しく、数十年前の歴史的な出来事を撮影した写真は非常に貴重で、特別なものでした。今回は、最近発見された歴史の一コマを切り取った写真をご紹介します。これは我々の過去を垣間見れる非常に重要なものであり、かつ魅力的なものでもあります。ぜひ、ご覧ください。

はい、チーズ

これは1890年に撮影されたカップルの写真です。コマの合間に笑い合う様子がなんとも微笑ましいですね。技術の進歩により、数十枚の写真を数秒で撮影できるようになった現代とは違い(そのほとんどは後に削除されますが)、ポートレート写真の黎明(れいめい)期であったヴィクトリア朝では、撮影された写真の一枚一枚が貴重なものだったのです。そしてヴィクトリア朝のポートレートは、カメラに向かって微笑んでいる写真が非常に少ないのです。
はい、チーズ
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このカップルが撮影された1890年当時は、撮影そのものに非常に長い時間がかかりました。時には1枚撮影するのに15分もかかることもあったそうです。そのため、当時は地味で無表情なポートレートが主流だったのです。

生き証人

第二次世界大戦中の1944年、ヴァルターとヴェルナーは、ドイツ・ナチス軍の強制収容所の中で最大規模のアウシュビッツ収容所に送られました。そこでは110万人以上の男性、女性、子供が命を落としました。アウシュビッツは、ユダヤ人の囚人が到着すると入れ墨を入れる唯一の収容所でした。信じられないことに、ヴァルターとウェルナーは同じ日に到着し、わずか10違いの数字を彫られました(A1828とA1838)。しかし、同じ時期に収容所にいたにもかかわらず、70年後に再会するまで二人は一度も会ったことがなかったのです。
生き証人
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この写真に写る3人目の男性もまた、アウシュビッツに送られたホロコーストの生存者です。ホロコーストの生存者の話を保存し共有することを目的とした "最後の目撃者プロジェクト" によって、ヴェルナー、ウォルターと出会いました。

真実の愛

デヴィッド・ボウイとイマンの美しいこの写真は、セレブリティと名声の世界で最も希少なもののひとつである "リアル" を映し出しています。このミュージシャンとモデルは、二人の関係と結婚の事実を周りには知らせず秘密にしていました。"デヴィッド・ジョーンズと恋に落ちた の" とイマンは2014年にガーディアン紙に語ったが、"デヴィッド・ボウイと恋に落ちたわけではないわ。ボウイはただのペルソナよ " とも語っています。
真実の愛
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ボウイとイマンは1990年代に、彼のヘアスタイリストによってブラインドデートをセッティングされたのがきっかけで交際を始めました。そして2人はわずか2年後に結婚し、2016年にボウイが早すぎる死を迎えるまでの26年間、交際を続けました。

月へ行った最初の女性

1969年の貴重な歴史的写真に写っているマーガレット・ハミルトンは、ニール・アームストロングやバズ・オルドリンのように有名になることを歴史が忘れてしまった、ソフトウェアエンジニアです。ハミルトンは、アポロに乗った宇宙飛行士たちを月に着陸させたNASAのソフトウェアチームを率いていました。彼女はこの言葉が一般的になる前から "ソフトウェアエンジニア" であり、この写真では、アポロ宇宙ミッションに使われたコードまたはプログラムリストと思われる資料の横に立っています。
月へ行った最初の女性
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"彼女はソフトウェア工学の発展におけるパイオニアであり、...女性としてこの種のプログラムに貢献し、この種の役割を担ったパイオニアでもあります。" と、アポロ計画コレクションを保管しているスミソニアン航空宇宙博物館の館長であるティーゼル・ミュアー・ハーモニー博士は語っています。

イタリア流

1950年代から1970年代にかけて活躍したイタリアの女優、ソフィア・ローレンは、その曲線美と同様に、才能でも有名でした。1957年にハリウッドに登場したローレンは "イタリアのマリリン・モンロー" と称され、"サイズ0になるくらいなら、パスタを食べてワインを飲みたい" という名言で有名になりました。その美しさと有名なシルエットは、彼女の才能の影に隠れてしまったかもしれませんが、彼女の長いキャリアは、自身のキャリアに対する献身的な努力の証と言えるでしょう。
イタリア流
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ソフィア・ローレンは、 "ふたりの女" でアカデミー賞主演女優賞を受賞しました。その後も数え切れないほどの賞を受賞し、ゴールデングローブ賞も5回以上ノミネートされています。

バーニーとバーミンガ

これは、1963年にアラバマ州バーミンガムで行われた抗議デモで撮影されたバーニー・サンダースの姿です。彼はその後、上院議員になり、最終的には米国大統領選に出馬することになります。1960年代初頭、バーミンガムではまだ人種間の分断が進んでいました。キング牧師が中心となって始まった非暴力抗議運動に参加し、警官に連行される若きサンダースの姿は、非常に貴重な写真です。
バーニーとバーミンガ
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キング牧師と非暴力の直接行動キャンペーンは、行進、ボイコット、座り込み、そして国際メディアの力を通じて、最終的にバーミンガムでの人種差別撤廃を実現させました。

レーダーをかいくぐる

このピュアでレアな写真は、2020年に出版されたヒュー・ニニとニール・トレッドウェルによる "A Photographic History of Men In Love, 1850s-1950s"(恋する男たちの写真史 1850年代~1950年代) という本に掲載されています。この本は、男性のパートナーシップが違法であった時代に、カップルを撮影(一部は密かに撮影)した感動的な写真を集めたものです。この写真集は、様々な職業の男性やカップルを映し出し、社会から隠されていたプライベートな世界を垣間見ることができる貴重なものです。
レーダーをかいくぐる
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"...これらの写真は、70年~170年の時の試練に耐えてきました。そして今、我々はその世界にうやく追いつき始めたばかりで、それを示す写真の保管者となったのだ。" と、この本には書かれています。

外はトゲトゲだけど、中はとってもソフト

パンク好きだって人間だ!この写真を見れば、そのことを我々に思い出させてくれます。ジャケットのトゲトゲを触りたいという小さな男の子のリクエストにひざまずいて答えるパンク姿の男性を見れば、パンクロッカーの "近寄りがたい" という印象は払拭されるでしょう。2009年のプライドイベントで撮影されたこの写真は、少年の興奮した表情、そして一見タフそう見える男性の楽しそうな表情など、見ているこちらもホッコリするような場面を切り取っています。
外はトゲトゲだけど、中はとってもソフト
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レザージャケット、ブーツ、黒い服、そしてモヒカン。このパンク姿の男性は最高の人生を送っており、外見というのはあくまで表面的なものであることを証明しています。

ドリーとディーン

ドリー・パートンの夫について何か知っているでしょうか?正直我々も何も知りません。二人が一緒にいる写真や姿はめったに目撃されなかったので、以前は "存在しない" と信じていた人もいたほどです。しかし彼は存在したのです!彼の名前はカール・ディーン。この夫婦は非常にプライベートな存在で、それが現在まで56年も続いている結婚生活の秘訣かもしれません。ドリーが18歳のときに出会い、2年後に結婚。それ以来ずっと一緒にいるんです!
ドリーとディーン
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結婚50周年を迎えたドリーとカールは誓いを新たにし、ドリーは "次の50年も、叫んだり蹴ったりしながら彼を引きずっていくわ!" と語っています。

決して忘れない

この写真は、第二次世界大戦中に殺害されたハンガリー・ブダペストのユダヤ人を追悼するために、ドナウ川のほとりに60足もの鉄の靴が並べられたオブジェを撮影したものです。1944年に政権を握った民族主義・社会主義政党アロークロスは、反ユダヤ主義を掲げるヒトラーのナチス党と手を組み、数千人のユダヤ人を強制収容所に強制送還し始めました。彼が政権を握ってから数日のうちに、600人のユダヤ人が殺害され、その多くがドナウ川のほとりで銃殺されました。
決して忘れない
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ホロコーストでは、ブダペスト出身の10万人以上のユダヤ人が亡くなり、ユダヤ人社会の50%以上が根絶やしにされてしまったのです。この靴は、宗教上の理由で殺害された人々の慰霊碑となっています。

死の間際に

1962年、南米ベネズエラで5日間にわたって起こった反乱の際に、エクトル・ロンドン氏が撮影しピューリッツァー賞を受賞した感動的な写真です。写真の中では、神父であるルイス・パディリャが、悪名高い反政府反乱 "エル・ポルテニャソ" で重傷を負った兵士を抱いています。この反乱では400人が死亡し、700人が負傷しました。多くの犠牲が出た反乱でしたが、最終的に政府を転覆させることができませんでした。
死の間際に
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ロンドンが撮影した "最後の祈りを捧げる神父" は、1962年に世界報道写真賞を受賞し、1963年にはピューリッツァー賞(写真部門)を受賞しています。

アンネとマルゴット・フランク

1940年、オランダのビーチリゾートであるザントフォールトで、無邪気で楽しそうに砂遊びをしている二人の姉妹。しかしそのわずか2年後、この2人のユダヤ人少女たちの人生は大きく変わってしまいます。1942年、オランダではユダヤ人に対する規制が始まり、黄色い星の実施、移動の制限、ユダヤ人の公職や職場からの解雇、ユダヤ人の子供の公立学校への立入禁止などが行われました。フランク一家は強制退去を逃れるために、アムステルダムにある父親の事務所の一部を隠れ家にし、身を隠しました。
アンネとマルゴット・フランク
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フランク一家は他の2家族と共に2年間隠れ家に潜伏しましたが、その後ゲシュタポによって発見されてしまいます。その後ウェスターボーク収容所に送られ、さらにアウシュビッツ収容所へと送られ、母親は餓死してしまいました。少女たちの最終的な死は、1944年にベルゲン・ベルゼンであったと記録されています。

ワクチンの重要性

2人の男の子と1つのウイルス。左の子はワクチン未接種で、右の子はワクチンを接種していました。天然痘ウイルスがワクチンのおかげで根絶される前は、10人に9人もの赤ちゃんが天然痘に感染して亡くなっていました。天然痘は、全身に膿を持った水疱ができる、命にかかわる病気でした。天然痘にかかった人は、失明したり、ひどい傷跡が残ったりすることが多かったそうです。彼女の名前はあまり知られていませんが、メアリー・モンタギューのおかげで天然痘は根絶されたのです。
ワクチンの重要性
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天然痘のワクチンは、接種のアイデアから始まりました。メアリー・モンタギューは、自身も天然痘の生存者で、コンスタンティノープルの英国大使の妻でしたが、トルコの "人痘接種" の方法を目にしたことを書き残しています。彼女は自分の子供2人にそのワクチンを接種させました。やがてイギリスの医学界はこの方法が有効であることを認めたものの、彼女の功績を認めることはありませんでした。

帰国の途につく兵士たち

この密集しすぎて何が何だか分からないような写真は、1945年、ヨーロッパから帰還した米兵を満載してニューヨーク港に入港したRMSクイーン・エリザベス号です。この船は1945年8月6日にスコットランドを出発し、8月11日にニューヨークに到着しました。船は満員のように見えますが、これは恐らくニューヨーク到着の際に兵士が全員船の先頭部分に移動したためか、あるいはアイゼンハワー大統領が少ない兵士を乗せた船を増やすより、多くの兵士を一度に帰国させることを選んだためかもしれません。
帰国の途につく兵士たち
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オリジナルは白黒で撮影されていますが、どこからどのようにこの写真を撮影したかは不明です。このカラー版の写真は、ロイストン・レナードの作品とされています。

セルフサービス

この写真を見たからには、この物語を語られなければなりません。この驚くべきエピソードは、都市伝説や民話ではなく、ある男が、本当に、最適とは言えない条件の中で、自ら盲腸の手術を行ったのです。ソ連の南極観測隊に参加していた外科医レオニード・ロゴゾフは、自身の体調が悪くなってきたことを感じ、医師として自分の症状が急性虫垂炎のものであることを察しました。南極大陸からヘリでの脱出のめどが立たないため、ロゴゾフは手術を決意したのです。自分自身で。しかも全身麻酔なしで。
セルフサービス
助手の手配、器具の消毒、そして万が一、途中で気を失った場合のバックアップも万全にしました。2時間近くかかりましたが、ロゴゾフはその手術をやり遂げたのです。ロシアでは、"不屈の精神と忍耐の結晶" と賞賛されました。

ランチの時間

このかわいらしい2人の子供を捉えた写真は、アメリカの歴史における暗く恐ろしい時代を物語っています。1941年、日本の真珠湾攻撃を受けてルーズベルト大統領は、アメリカ西海岸に住むすべての日系人を、アメリカ市民であるかどうかにかかわらず収容所に移送するよう命じました。この写真は、ドロシア・ラングがサンフランシスコのラファエル・ヴァイル・スクールで撮影した "Lunch Hour"(ランチの時間)と題された作品で、日系人が疎開する前の様子を捉えています。
ランチの時間
Library of Congress
合計で11万2千人以上の日系アメリカ人が家から追い出され、収容所に入れられました。収容所での非人道的な状況に3年間も耐え、家・仕事・命を奪われた人もいました。

命がけの人工呼吸

心肺蘇生術はいつ必要になるかわかりません。この写真は、1967年に電線のメンテナンスをしていたランドール・G・チャンピオンとJ・D・トンプソンという二人の同僚を撮影したもので、"Kiss of Life"(命のキス)と名付けられています。チャンピオンは誤って低電圧線に接触し、意識を失ってしまいます。彼はハーネスを付けていたため落下しませんでしたが、下にいた同僚が即座に電柱を登り、人工呼吸をして蘇生を始めました。救急車を呼んだのは、偶然通りかかりこの写真を撮影した写真家のロッコ・モラビトでした。
命がけの人工呼吸
asliceofhistory
チャンピオンは心肺蘇生の甲斐あり、一命をとりとめました。そしてロッコ・モラビトは、1968年に "Kiss of Life" でスポットニュースのピューリッツァー賞(写真部門)を受賞しました。

解放への長い道のり

第二次世界大戦が終わり、連合軍がポーランドとドイツの強制収容所を解放し始めました。これは、悲痛だが爽快な歴史的瞬間を捉えた非常に貴重な写真です。彼らの顔に浮かぶ喜びは本物のように見えますが、収容所の生存者たちはこれから長い回復への道のりとトラウマに直面するのです。故郷に帰ると、家族や友人が殺され、コミュニティが一掃され、"隣人" がユダヤ人の所有する家を占拠しているのを発見した者もいました。修復と復興には長い長い道のりがあったのです。
解放への長い道のり
courtesy of National Archives and Records Administration, College Park / Wikimedia Commons
収容所を解放した連合国軍兵士の証言は、ホロコーストの残虐行為の当事者であるナチス政権の恐怖の全容を明らかにしました。

人生をかけたマラソン

カトリーヌ・スウィッツァーは、ボストンマラソンに参加するため大学のクロスカントリーチームの男性たちと一緒に練習していましたが、1967年にボストンマラソンへの女性の参加が禁止されてしまいました。ですがスウィッツァーは参加登録したのです。レースが始まって数キロまでは順調でしたが、彼女が走っていることに激怒した主催者が彼女に体当たりし、ゼッケンを引き剥がして棄権に追い込もうとしたのです。それにも負けずスウィッツァーは見事完走し、その後スポーツにおける女性のための活動家となりました。
人生をかけたマラソン
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その5年後、ボストンマラソンへの女性の出場が正式に許可されました。"もし私が辞めたら、誰も女性に41km以上を走る能力があるとは思ってくれなくなると思ったんです。もし私が辞めれば、誰もが売名行為だと言うでしょう。もし私が辞めたら、女性のスポーツは前進するどころか、後退してしまうでしょう。" - カトリーヌ・スウィッツァー

コロナに勝った女性

この写真が掲載された時点では、病院のベッドにいる95歳の女性が、イタリアでコロナから回復した最高齢の人でした。しかしその後、イタリアのリミニに住む101歳の男性が同じくコロナから回復しました。フランスでは、世界で2番目の高齢者である117歳の人がコロナウイルスに感染し、回復しています。シスター・アンドレというフランス人の修道女が、2021年に完全回復したのです。
コロナに勝った女性
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イタリアは特に、2020年にコロナウィルスのパンデミックが始まってから大きな被害を受け、国全体で16万5千人以上の死者が出ています。

猫ちゃんにもおすそ分け

ロボット搾乳機は酪農家にとって、より高い乳量と労働コストの削減をもたらす画期的なものです。しかし、ロボットや機械が発明される前は、牛のミルクはどのように搾乳していたのでしょうか?もちろん手作業でおこなっていました。この写真は、牛の乳搾りは手作業、あるいは伝統的にミルクメイド(牛の乳を搾り、バターやチーズも作る女性のこと)が行っていた時代、そして写真の猫ちゃんのように他の動物も牧場で交流していた時代など、歴史のユニークな部分を現代の我々に示しています。
猫ちゃんにもおすそ分け
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1930年代には、機械式のポンプで搾乳するようになりましたが、1日に2回しか搾乳できないという制限がありました。現在では、1日に5〜6回の搾乳が可能なロボット式の搾乳機が導入され、猫ちゃんが牛に近寄れないようになってしまいました。

オーストラリア魂

5人の痩せこけた骸骨のようなオーストラリア人捕虜が、写真撮影のために新聞を読み、お茶を飲んでポーズをとっています。この衝撃ともいえる写真は、後に生き残った捕虜たちが語った、飢餓、日常的な殴打、虐待、強制労働といった非人道的な状況や冷酷な扱いについての証言を如実に表しています。東南アジアで捕虜となっていた8000人以上の兵士が、日本軍の手によって命を落としました。捕虜となったオーストラリア人兵士のほとんどはシンガポールのチャンギに送られ、そこから他の労働キャンプに送られました。
オーストラリア魂
© IWM HU 69972
第二次世界大戦中、日本は東南アジア全域で約2万2千人のオーストラリア人を捕虜としました。彼らはシンガポールからタイ、ビルマ、朝鮮半島に至るまで、各地の労働キャンプに送られ、日本軍が使用する鉄道や道路などの建設に従事させられたのです。

背中の開いたドレス

1950年代のマリリン・モンローやジェイン・マンスフィールドのようなオールド・ハリウッドのセックスシンボルといえば、ヴィッキー・ドゥーガンは思い浮かばないかもしれません。しかし、ドゥーガンが15分間の名声を得たのは1956年頃でした。モデルや女優を目指していた彼女は、"ライフ" 誌の表紙を飾った後から注目を集め始め、1957年にラルフ・クレインが背中の開いたドレス姿の彼女を捉えた象徴的な写真を撮ったのです。しかし、当時の他の成功したモデルとは異なり、彼女の女優としてのキャリアは軌道に乗ることはなく、ハリウッドで "大物" になることもありませんでした。
背中の開いたドレス
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"本当の私じゃなかったの。私は役を演じていたの。背中を見せることにセクシーさがあるとは思ってもいなかったわ。思いつかなかったのよ" - この写真に対して、ヴィッキー・ドゥーガンはこうコメントしています。

ウガンダの飢饉

この写真では、カトリックの宣教師が4歳前後と思われるやせ細ったウガンダの子どもの手を握っています。ウガンダのカラモジャ地方では、1980年に起こった飢饉で60%の子どもたちが亡くなりました。マイク・ウェルズはこの写真で世界報道写真賞を受賞しましたが、彼はこの写真を撮ったこと、そして新聞社が5ヶ月間掲載せずに放置し、最終的に賞のために提出したことを恥じていると語っています。
ウガンダの飢饉
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ウガンダのカラモジャ地方で食糧不足が始まったのは、近隣諸国との戦争が続いていた1980年頃でした。食料と物資の破滅的な不足は、史上最悪の飢饉を引き起こしました。

愛がすべて

愛は愛なんだ!これは1900年に撮影された、カメラの前で仲睦まじい姿を見せているカップルの貴重な写真です。このカップルがどの国に住んでいたかは不明ですが、イギリスではレズビアンは実際には違法ではなく、法律は男性のセクシュアリティと同性愛行為にのみ適用されるものでした。アメリカでは、アメリカ精神医学会の精神疾患リストからホモセクシュアリティが削除されたのは、1973年のことでした。
愛がすべて
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一般社会では嫌われ者であるレズビアンが、ヴィクトリア女王の時代には存在すら認識されていなかったということは、レズビアンのコミュニティが何十年にもわたって抱えてきた不可視性と女性蔑視を浮き彫りにしています。

フォトブースの中だけは

このカップルはフォトブースの中だけでは自由にできましたが、ブースの外ではそうはいかなかったのでしょう。カナダで男性同士の性行為が非犯罪化されたのは1969年のことで、異性愛者と同性愛者の同意年齢に差があるなど、多くの法律が残っていました。これらの法律は2016年にようやく廃止されましたが、カナダでは2005年に同性婚が合法化されました。
フォトブースの中だけは
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2017年、カナダのジャスティン・トルドー首相は、カナダとカナダ政府を代表してLGBTQ+コミュニティに対する演説で正式に謝罪し、2020年には警察も数十年にわたる抑圧について正式に謝罪しました。

波乗り授業

"教師の価値を完全に測ることは、テストの点数への影響をはるかに超えています。生徒の非認知能力を向上させる教師は、高校を卒業する確率を含む長期的な成果をも向上させるのです。" - エデュトピア  1970年に生まれたこの教師は、明らかに正しい職業を選んだようです。サーフィンの物理学に関するこの授業に注ぐ情熱をご覧ください。この素晴らしい先生が誰なのか、ここで実際に何が行われていたのか、詳細は不明ですが、彼の授業が生徒たちに与えた影響は想像できます。生徒の表情を見れば一目瞭然でしょう!
波乗り授業
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先生によっては、他の先生よりも強い印象を与えることができます。学校教育の他のあらゆる側面と比較すると、生徒の学力に最も大きな影響を与えるのは教師である、ということです。

KKKの子ども

この写真はまさに "百聞は一見にしかず" です。1992年、ジョージア州で行われたクー・クラックス・クラン(KKK:アメリカの秘密結社)の集会で、小さな子供が警官の盾に映る自分の姿を見つめています。警察官は黒人、子どもは白人でクランズマンと同じ格好をしています。KKKは1915年頃に設立されたヘイト組織で、アメリカ南部の州で白人至上主義と白人統治を推進することを目的とした組織です。
KKKの子ども
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1920年代、KKKにはクー・クラックス・キディーズと呼ばれる10代の少年、少女、子供たちのための補助組織もあったそうです。

同級生

あまり知られていないセレブの真実:引退した女優のキャメロン・ディアスとラッパーのスヌープ・ドッグは同じ高校(アメリカ・カリフォルニア州のロングビーチ・ポリテクニック・ハイスクール)に通っていたそうです。カリフォルニアの同じ高校出身の2人の子供が、ハリウッドの名声とセレブの世界に行き着くことは全く珍しくはありませんが、キャメロンが10代の頃にスヌープ・ドッグからマリファナを買ったことがあると明かしたのにはかなり驚きました!
同級生
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"私たちは同じ高校に通っていたの。彼は私より1つ年上だったんだけど、そこでの彼のことを思い出したの。私たちの学校にはたくさんの生徒がいて、3,500人くらいいたんだけど、私が覚えているのは、彼がとても背が高くて痩せていて、頭にたくさんのポニーテールをつけていたことなの。" - キャメロン・ディアス

ソウルメイト

フレディ・マーキュリーは、ロックバンド "クイーン" のリードシンガー、ソングライターとして、そしてステージ上での絶大なる存在感で、ロック界の伝説的存在として永遠に皆さんの記憶の中にいることでしょう。死後30年以上たった今、彼はゲイの象徴とされていますが、フレディ・マーキュリーは自分がゲイだとカミングアウトする前に、写真に写るメアリー・オースティンという女性と婚約していました。二人の関係は1976年に終わりを迎えましたが、1994年にマーキュリーがエイズで亡くなるまで、二人は親しい友人であり続けました。
ソウルメイト
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マーキュリーは特に "プライベート" な生活を送っていたため、死の数日前まで自分がエイズに感染していることを世間に公表しようとしませんでした。

涙は自分で乾かすもの

2011年、セルビアのベオグラードで行われたエイミー・ワインハウスの最後のコンサートは、彼女にとって "史上最悪のパフォーマンス" と言われました。しかしこのコンサートの翌月に彼女が亡くなってしまったという事実をふまえると、より悲劇的に思えるのではないでしょうか。2006年に音楽シーンに登場したエイミー・ワインハウスは、数々の賞を受賞し、マスコミは彼女をひっきりなしに追いかけました。彼女はアルコールと薬物依存症と闘い、最終的に2011年にアルコール中毒で亡くなりました。
涙は自分で乾かすもの
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この写真は、エイミーを最後に撮影した1枚です。この夜、ベオグラードのライブに来た観客たちは、彼女が歌詞を忘れたり、歌を途中で止めたり、奇怪な行動をとったため、怒りに満ちた反応を見せました。しかし、この瞬間の彼女を見ていると、彼女の苦悩や悲しみ、孤独を感じることができるのです。そしてこの1か月後に、彼女は亡くなってしまうのです。

結婚のゴール

バラクとミシェル・オバマの出会いと恋については、ミシェルの著書" Becoming" の一章で紹介されているので、もうご存知の方もいるでしょう。ミシェル・オバマは、バラクがシカゴの法律事務所にインターンとして入社した際、バラクのアドバイザーとして活躍しました。しかし実際の結婚式の写真は、我々の見たことがないような光景だったのです!二人のファーストダンスは、スティービー・ワンダーの "You and I" 。うっとりしちゃいますね。
結婚のゴール
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この写真では、バラクが伝統的なブライダルガーターを取り外しています。それかフットマッサージをしているのでしょうか。いずれにせよ、二人は30年経っても仲睦まじい夫婦です。

ワイルドなパパ

スティーブ・アーウィンは、オーストラリアにある動物園の飼育員であり、自然保護活動家でもありました。動物の世話とリハビリの世界に生き、残りの人生を動物と一緒に過ごすような人でした。妻のテリー、子供のビンディとロバートとともに、アーウィン夫妻はオーストラリア動物園での活動で世界中にその名を知られるようになりました。写真では、ワニを持つスティーブと小さなワニを持つ幼いビンディが写っています。
ワイルドなパパ
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残念ながら、スティーブ・アーウィンはオーストラリアのグレートバリアリーフでのドキュメンタリー番組の撮影中、突然のエイの襲撃により亡くなりました。現在、子どもたち2人が彼の遺志を継ぎ、野生動物保護活動を続けています。

大好きなおじいちゃん

1966年、幼いバラク・オバマが祖父とビーチで遊んでいる貴重な家族写真です。二人はとても楽しそうで、この写真が二人の関係を物語っています。オバマ前大統領は、インドネシアに留学して不在だった母親ではなく、10歳からハワイで自らを育ててくれた祖父母のことをよく話しています。
大好きなおじいちゃん
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特に興味深いのは、この写真に写っているオバマ氏の祖父、スタンリー・ダナム氏も、母親を自殺で亡くし、父親が自分と弟を追い出したため、幼少期は自分の祖父母に育てられた経験があるということです。

レストランにて

写真は過去を垣間見ることができる一方で、未来の私たちに直接語りかけてくることがあります。1959年のペンシルベニア州ピッツバーグは、アメリカで公民権運動が始まって10年目の頃でした。1955年に米軍の人種差別撤廃が行われましたが、同年、白人女性に口笛を吹いたとしてエメット・ティルが殺害されました。そして、ミシシッピ州など他の地域では、公民権運動に対する報復がまだ続いていたのです。
レストランにて
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この写真を撮影したのは、自身の故郷ピッツバーグをインスピレーションとし、すべての作品のミューズとしたアフリカ系アメリカ人写真家、チャールズ・'ティーニー'・ハリスです。

ヘップバーンとケリー

当時の寵児(ちょうじ)二人がこちら!1929年生まれのオードリー・ヘップバーンとグレース・ケリーは、共にスターとしてハリウッドに渡り、それぞれ全く異なるキャリアを歩みながら大成功を収めました。二人が一緒に写っている写真がほとんどないことから、二人は会ったことすらなかったのではないかと多くの人が思っています。一緒に映画に出演することはありませんでしたが、全盛期には二人とも超絶有名だったことを考えるときっとどこかで会っていたに違いありません。
ヘップバーンとケリー
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この超レアな写真は、1956年のアカデミー賞の舞台裏で、二人が賞を授与しているところを撮影されたものです。ヘップバーンとケリーはそれぞれ、主演女優賞でオスカーを受賞したことがあるのです。

ママおかえり!

そう、私も今ティッシュに手を伸ばしています。テリー・グロラ少佐と娘のギャビーちゃんの、この胸が張り裂けそうな写真は、イラク戦争初期に有名になりました。軍医であるグロラ少佐と娘との美しい再会の瞬間は、2007年にアトランタ空港で撮影されたものです。グロラは、7カ月間のイラク駐留中に2週間の休暇をとり、娘に会いに一時帰国したところでした。
ママおかえり!
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"今でも、この写真を見ると涙が出ます。私たち軍人の親が経験する本当の感情を表しているんです。" - グロラ(2014年)

縁の下の力持ち

ホーキング博士の宇宙物理学の功績と運動ニューロン疾患との闘いは、現在世界中で知られている事実ですが、彼の介護者であり妻であり子供たちの母親であるジェーン、つまり、これらすべてをまとめている "接着剤" の存在はほとんど知られていないでしょう。ホーキング博士が病気の診断を受けた直後の1965年に結婚した二人は、3人の子供をもうけ、30年にわたる結婚生活を送りました。"実は、私たちの結婚生活には4つのパートナーがいたんです。スティーブンと私、運動ニューロン疾患、そして物理学です。" - ジェーン・ホーキング
縁の下の力持ち
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この激動の時期に、子供たちの世話と悪化していく夫(彼は他の介護者を拒み、自分の病気について話すことも拒みました)の世話をしながら、彼は研究を進め、ジェーンは自分自身の博士号を12年かけて取得しました。しかし二人は1995年に離婚し、その後間もなく再婚したのです。

名前の由来

ちょっと退屈でありふれた "デイヴィ・ジョーンズ" という生まれながらの名前から、伝説的で革新的でクリエイティブな謎めいたポップスターへと変貌したのが、"デヴィッド・ボウイ" です。なぜ、ボウイは名前を変えたのでしょうか?音楽の世界では、別名を使って活動することは珍しいことではありませんが、ボウイの熱狂的なファンなら誰でもわかる答えです - 彼は芝居が大好きだったのです!ボウイは、自分の名前を使うことを考案し、それを楽しんでいました。ボウイは、ジギー・スターダスト、シン・ホワイト・デューク、アラジン・セインといった分身を生み出し、また、中世的な衣装で登場することも多かったのです。
名前の由来
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それだけでなく、デイヴィ・ジョーンズというポップスターはすでに存在していました。モンキーズのデイヴィ・ジョーンズです。そのため、一時はファーストネームをトムに変えようとしたそうですが、結局ボウイに落ち着いたのです。

猫あるある

これはセレブの私生活を垣間見ることができる貴重な写真です。彼は猫派だったんですね! 世界的に有名なミュージシャン、フレディ・マーキュリーは、ある時期10匹以上の猫を飼っていました。引っ越した先の家では、ティファニー、ドロシー、デライラ、ゴライアス、リリー、ミコ、オスカー、ロミオと、すべての猫に寝室があり、いかに猫ちゃん達が家族同然に大切にされていたかを物語っています。マーキュリーは、保護猫を好んで飼ったそうですが、メアリー・オースチンから譲り受けたサラブレッドの猫も1匹飼っていました。
猫あるある
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マーキュリーの長年のパートナーであったジム・ハットンは、猫たちはフレディの子どものような存在で、ツアーで留守にするときには電話をかけて話しかけ、曲名も彼らにちなんだものにするなどしていたと語っています。

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✍ WRITTEN BY

Elleni Rozam

When Elleni isn’t busy spending time with her amazing daughters and husband, she’s busy writing away. Sometimes you can find her by a window, scribbling in a journal. Other times, you can find her ferociously typing away as she writes intriguing articles on all kinds of topics.

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